「太宰治」と「三島由紀夫」 [三島由紀夫]
・
・『親鸞』の求めたものに・・・、寄せられたコメントからーーー。(http://blogs.yahoo.co.jp/tetueifukami/12109301.html)
*経典風の教えではなく?ーー、
・自らのうちに湧きでてくる思いが大切なのだと私自身思っています。
――心の安らぎをえる霊感こそが天の神様の思いであり、神の存在であり、神は愛の源であるということを信じることなのだと思っていますーー。
・自分の心をみくびらず、自然に流れ入る思いを大切にして下さい。
2009/10/3(土) 午後 8:50[ 親らん ]
■■自らのうちに湧きでてくる思い……、
・想いが陶酔の中から、陶酔の外へ。親鸞への陶酔は、厳しいでしょうね。
言い易いことばが、こころを律するに至るのは、至難。三島由紀夫はその死によって、言葉を汚し、陶酔の悲劇を、ヒトのこころに落としました。信じることが、陶酔ではおぼつかない、言い易き言葉と、言い難きことばが、ヒトつになりません。
お寄りの折りは、お気に召すまま、コメントは、まったく自由です……丈司ユマ
2009/11/18(水) 午前 3:14[ georgeyuma ]
■■[ georgeyuma ]さんコメント有り難うございます。
*自らのうちに湧きでてくる思い―――。
・生理学的にいえば、心か、頭か、そのどちらからか出てくる徳性のことを言っているのです。
・頭から出てきた徳性(自我の愛)に裏ずけされた感情というものではなく。
・人間の行動が受けている因果的な拘束を認識し得る意識によって裏ずけされた感情から出てくる徳性のことを述べているのです。
――別な言い方をすれば、(・運命的なものとして現れてきた因果的な拘束を受け入れることのできる、義務観念に裏ずけされた、くもりのない思惟とでもいうべき――真我の目覚め http://blogs.yahoo.co.jp/tetueifukami/20915549.htmlのことを言っているのです。)
・自我でもなく、無我でもなく、無私でもなく、・自然のあるがままの姿で、仏の手に身を委ねたとき---に、湧きでてくる思い。真我の目覚めとして・・・?、
■■又――、
・三島由紀夫については、同じ時代を生きたものとして、彼の死の意味について考査することは、私の人生における重要なテーマなのです。
と、いうのはーーー、
・三島氏が嫌っていたと言われる「人間失格」(生まれて、すいません――。)で有名な「太宰治」は――道徳的要綱によって存在せしめねば成らぬと教える。ところの、神は死んだと言う――その崩壊する価値と共に死ぬこと、
・あるいは――神の存在は信じていなかったとしても、その崩壊する価値のために自らを犠牲にすることを選んだ思想家であった?。
――しかし、その思想はニーチェや、ドストエフスキーにくらべてはるかに思想的に浅いものであった。
*太宰治と違って、三島由紀夫は――「輪廻転生」の世界観(・生まれ変わり=「それは、過去からの流れを背負った行為的責任に対する罪の証であり、現在の苦に関する命題を生起せしめている。」と教える。) ところの――、
・運命的なものとして現れている――因果的な拘束を受けている。人間の存在が、どう在らねばならないのか?、それを問いつずけてきた思想家であった。
(「三島由紀夫」は――「輪廻転生」の書として有名な「豊饒の海」四部作を遺して旅立った。)
――彼の、死の意味について考えることは、私の人生において避けて通ることのできない問題なのです。




コメント 0